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ラッタウット・ラープチャルーンサップ 『観光』

カテゴリー : 本・雑誌・漫画 — 2011/11/09

発展途上国と呼ばれる国々に長期滞在した経験はあるだろうか。私は10年ほど前、学生時代の夏休みに、モロッコに1ヶ月滞在した。国際交流NPOの紹介でホームステイをして、滞在中は地元の工房で陶器作りを学びながら、地元の青年たちとも交流するというプログラムだったが、受け入れ役のモロッコ人数人と、イギリス、アメリカ、フランス、日本などから来た私たちはもっぱら街中のカフェでお茶を飲んでだべったり、みんなで旅行に行ったりして過ごした。帰国後、一緒に行動していたモロッコ人青年のひとりからラブレターが届いた。下手な英語で、I love youとか書いてあったのだ。こちらとしてはそういう対象としては見ていなかったので、非常に気まずい思いをし、結局返事は書かずじまいだった。

モロッコでは、街にアジア人はほとんどいない。だから外を歩いていると外国人だということは一目でわかり、頻繁にナンパされる。彼らにとって、外国人と恋愛し、結婚して、先進国で暮らせるという人生はあまりにも魅力的なのだ。そのせいで、外国人そのものが魅力的に見えてしまうということを誰が責められるだろうか。

本書『観光』はタイに暮らす人々を描いた短編集だ。最初に収められている「ガイジン」では、アメリカ娘とひと夏の恋を繰り返している少年が描かれ、私はモロッコ滞在時のことを思い出して恥ずかしくなった。そこには、観光客用にわざと英語の間違った看板を用意する人がいる。また主人公は子どもの頃は木登りの特訓をして外国人に披露し、ことさらに「原住民」っぽく振舞ってお金を稼いでいた。私もそのようなものを見抜けなかったかもしれないと、エキゾチックな南の国でひと夏楽しみ、安全で快適な先進国に帰ったガイジンであるわが身を振り返った。

読みすすめると、タイの社会環境の理不尽さについて思いを巡らせずにはいられない。貧しい人、医療や福祉のサポートを必要とする人、いわれのない暴力に遭った人のフォローは、日本では完全ではないながらも、本書で描かれるタイよりはよほどまともに行われていると言える。例えば、「観光」では、主人公の青年の母親は、近い将来失明することが分かっている。手術を受けるお金があれば失明を防げるが、そのお金がない。手術をできる医者もタイ国内にはおらず、シンガポールから呼ばなければいけないのだ。町の顔役に目をつけられ、トラブルに遭う父娘を描く「闘鶏師」でも、警察や司法がまともに機能していれば避けられたはずだ。コネによって徴兵を回避できる少年とそうできない少年の格差を描いた「徴兵の日」のような、政治にいかに取り入るかによって個人の運命を大きく左右するような理不尽は、日本ではまずない。さらに、一般のタイ人よりもっと厳しい環境で生きている人たちのことも描かれる。「プリシラ」ではカンボジアからタイにやってきた難民の少女プリシラと、タイの少年たちが知り合って仲良くなるが、少年の父親たちは難民の住居に火を放ち、難民を追い払ってしまう。

そんな中で、先進国の人間はどういう存在なのか。「ガイジン」以外の短編でも、観光にやってくるガイジンたちはタイの風景の一部としてある。私はガイジンの立場ながら、タイ人がガイジンを見る目線をこれらの小説で感じられたような気がした。この国では遊びだけをして、豊かで恵まれた国に帰って行く、自分たちに金を落としていってくれる存在。同じ空間を共有していても、母国のお金やパスポートに守られた、薄皮一枚の差で「向こう側」にいる人。

しかし本書は、ことさらに社会派を前面に出しているわけではない。あくまでも具体的な出来事と、それに対する個人の気持ちを軸に描いており、社会の不正を告発するような口調ではない。途上国の普通の人が見る風景や、そこで日々生きていくとはどのようなことか知りたい人にはおすすめだ。

船曳由美 『一〇〇年前の女の子』

カテゴリー : 本・雑誌・漫画

日本版「赤毛のアン」はここにいた

『赤毛のアン』がカナダで発表されたのは一九〇八年であった。元号に直すと明治四十一年になる。本書はその翌年に栃木県の高松村という農村に生まれた寺崎テイの物語である。テイの母親は嫁いだ寺崎家の嫁であることを放棄し、出産のために実家に帰ったあと婚家に戻らず、生まれた娘テイだけを婚家に送り届けた。

その後父親は後妻を迎え、後妻の実家の希望で、テイは養女に出された。テイは複数の家を転々とするが、どれも望ましい家ではなく、しっかり面倒を見てもらえず、愛情にも欠けていた。その姿は、幼くして父母を亡くし、マリラとマシュウに引き取られるまで知り合いの家や孤児院で苦労を重ねたアンに重なる。テイは7歳のとき、養女先の環境を見かねた父が決断して、寺崎家の跡継ぎにはしないという条件で実家に戻れることになった。

実家に戻ったテイは祖母の監督のもとで、アンはマリラとマシュウに引き取られてやっと安定した生活を送れるようになるが、テイは同世代の普通の女の子と違い、母親なしで、もちろん父親の後妻となった女性はいて、いじめられたわけではないが、かといって実の母親のような信頼感も持てないまま成長していく。幼いころに「お父さんとお母さんがいて、自分は子どもとして無条件に愛される」という暮らしが自明のものではないことを知った女の子は、周囲に対して透徹した観察眼を持つようになるのだろうか。自然や事物を観察して物語を作るのが好きだったアンと、米寿を過ぎてから自分の幼少時のいきいきとした記憶を語り始めたテイはここでも重なる。本書は、テイの語りをその娘が聞き書きしてまとめたものだ。

テイは実家で安楽な生活ができたわけではない。寺崎家は周辺の農家よりは豊かだが、それでも米だけのご飯は特別な日しか食べられないし、農家の子供には子供の仕事がある。友達と楽しみながらイナゴをつかまえたら、帰ってきて翅と足をむしって調理して食べる。朝は早起きして、蚕に食べさせる桑摘みをしてから学校に行く。学校から帰ったら夜の明かりのためにランプを磨き、その後は風呂の水汲みだ。大人の労働はさらに厳しい。祖母のヤスは季節ごとの労働と祝い事、しきたりなどあらゆる家事に通じ、家を采配している。

『赤毛のアン』のカナダの農村とテイが生きた日本の農村、その社会の最大の違いは宗教観ではないだろうか。どちらの人々も敬虔だが、毎週日曜日に教会に通う一神教の国のアンと、八百万の神の世界に生きるテイ。テイの世界では、台所、便所、風呂、井戸、農機具、米俵など、あらゆる場所にそれぞれの神がいて、正月などの決められた機会に、供え物などでそれぞれの神を尊重している姿が印象的だ。

カミュ 『異邦人』

カテゴリー : 本・雑誌・漫画

世の中の常識なしに、感覚だけで人は生きていけるか

主人公ムルソーは当時フランス領だったアルジェリアのアルジェに暮らすフランス人の青年。彼の考え方や感じ方は独特だ。その場その場での感覚は鋭敏だが、それを相手に伝える表現力を持っていない。まわりを見て、一般常識に照らして自分も同じように行動すべきだと考える脳の回路が抜け落ちているかのようだ。物語の始めで彼は養老院に入っていた母が死去したという知らせを受け取り、葬式に向かう。彼は、彼なりに母を愛していたし、その後も折に触れて母のことを考えたり、思い出したりしているのだが、それを他人に対して愛という言葉で表現しないし、葬式では母の顔を見て別れを言う、涙を流す、葬式の前後しばらくは身を慎むというような、一般常識にのっとった行動をしない。

それでも他人に害を加えなければ、友人もあり、マリイという恋人もいて、それなりに楽しく生きていけただろう。しかし彼は友人レエモンと海に出かけ、レエモンに恨みを持っていたアラブ人をレエモンの銃で殺してしまう。その前に相手がナイフを出したから、正当防衛と受け取れる面もあるのだが、ムルソーは裁判で自己に有利な点を説明しない。一方で、母の葬儀で悲しみを表現しなかったなどの一般常識に欠けた部分が陪審員の心象を悪くし、死刑になる。彼の中では、自分に有利なことを言えば、陪審員の心象がよくなり、自由になれるという論理的なつながりがない。そもそも、人を殺したら逮捕され罰されるから、人を殺さなければならなくなるような事態はできるだけ避けようという常識が働いていないようだ。ただ行き当たりばったりで行動して、ムルソーをレエモンのグループの一員だと思っている、敵対するアラブ人と出会ってしまい、相手がナイフを出してくるという事態になったので撃った、それだけだ。死刑囚になったムルソーは、神を信じておらず、死刑囚のところに訪問することになっている司祭を断固として拒否する。

ムルソーは、たとえ他人とコミュニケーションしていても、他人とか常識とか社会とかを芯から受け止めることなく、自分ひとりの感覚の世界に閉じているようだ。人間が営々と積み上げてきた文明の中にある、宗教や、裁判のような社会のルール、葬式ではこう振舞うべきというような一般常識、それらがない。彼はその分、瞬間瞬間の美しさは誰よりも感じている。裁判の場でも、自己の心象をよくすることよりも、一瞬アイスクリーム売りのラッパの音が聞こえたとか、空気が気持ちいいとか、そんなことばかり感じているムルソーなのだ。裁判では、葬式で適切に振舞えなかったことを引き合いに出されるが、彼のような人間を前にしたときに、市民の代表、良識ある人間として期待されている陪審員の反応は、彼は情がない、恐ろしい人だとみなすことである。しかし、ムルソーは極端な例にしても、大抵の人間は自分ひとりの感覚の世界と、常識と文明の世界の両方で折り合いをつけて生きているので、ムルソー的な部分が全くないとはいえないだろう。

人がもしその感覚だけで、社会性を欠落させて生きていったらどうなるかというシミュレーションの結果、文明社会においてはその人は結局社会に殺されるだろうという結論に至ったのが、この小説だといえよう。

きたみりゅうじ 『フリーランスを代表して申告と納税について教わってきました。』

カテゴリー : お金関連,本・雑誌・漫画 — 2011/02/28

yomoyomoさんとこで見て買った本。これはわかりやすくていい本でした。

夫が副収入もあるサラリーマンなので、確定申告をしないといけないのだけど、夫はお金のことには疎くて、私も疎いのだけど、なんとか助けになれないかと思って読みました。

確定申告ってそもそもどういうことで何のためにするのかいまいちわかってなかったし、控除というのも何のことか分かっていなかったのですが、この1冊でスッキリわかりました。

売り上げから経費と控除を引くことで、税金のかかる課税所得が算出されるので、この経費と控除をできるだけ大きくしておいて引くのがポイントである。

……と理解すれば二行で済む内容なのだけど、既存の確定申告の本などは、それを分かっているのが前提で書いてあるので今まで分からなかったのだなぁと思いました。

タイトルにはフリーランスとあるけれども、副収入のある会社員でも税金のことが理解できていない人(会社員の方がこういう人は多そうだ)なら読む価値はあります。健康保険についてや法人化についてなど、何章かは飛ばしていいけど、大半は役に立ちます。フリーランスならば必要となる税金対策を読むと、会社員って恵まれているんだなあとも思いました。

【書評】 『終点のあの子』柚木麻子

カテゴリー : 本・雑誌・漫画 — 2010/09/15

某所に提出した書評です。同じ本の感想は以前にも書いたのですが、この時は思ったことをたら~っと書いただけなのに比べて、今回は800字程度で書評として提出するのが条件だったので、あんまり主観的になりすぎないよう、「他者に紹介する」ことを意識して書いてみました。うまくいったかどうかわかりませんが……。

 ◆ ◆ ◆

東京の私鉄、小田急線沿線にある女子高で、一作ごとに同じクラスに所属する別の女子高生を主役とした四篇の連作小説。

最初の「フォーゲットミー、ノットブルー」では、しっかり者の希代子は、父親は写真家で、何ヶ国も転々として育ってきた、文化的にも自分たちの先を行っている朱里に憧れて親しくなるが、次第に自由奔放な朱里に好悪が混じった感情を抱くようになり、あるきっかけで彼女への裏切り行為を実行。朱里は高校生くらいの頃に憧れを抱きがちなキャラクターだが、彼女を単に「格好いい女の子」「裏切られた被害者」として描いてはいない。アート系の教養や人脈に恵まれていても、彼女の内面は幼稚なままであることが大学進学後の彼女を描く「オイスター・ベイビー」では明らかになるが、高校生の頃から人間的成長が止まっていることが、タイトルの「終点」の意味かもしれない。

女子高生たちは、属する文化ごとに教室内でいくつものグループに分かれている。特に、教室では接点のなかった本好きでオタク系の早智子と美人だが知的なことに関心がない恭子が夏休みの初めに図書館で出会ったのをきっかけに、残りの夏休みを一緒に過ごす「ふたりでいるのに無言で読書」ではその様子が描かれている。彼女らは読む小説(あるいは、恭子のように小説など読まないグループもある)や聴く音楽など、自分が好む事柄の固有名詞の違いによって住み分けているが、大学生以降ほどには違う文化の壁は高くない。だから、恭子は夏休みの間、早智子の自宅に通って本を読んで二人で一緒に過ごすようになったのだが、友情は長くは続かなかった。

その同じ夏休み、「甘夏」のヒロイン奈津子は、学校で禁止されたアルバイトをしている。奈津子はチャットモンチー(ロックバンド)が好きだが、別の場所でアルバイトをしている隣のクラスのビジュアル系好きなミッツーと日々携帯メールをやりとりする。作者はどのタイプの女の子にも愛情を持って彼女らが好きなもの、憧れるものを描写している。

終点のあの子
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柚木 麻子
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2 少し足りない
5 太宰治の傑作「女生徒」を思い出しました。
4 甘くほろ苦い・・・
4 女子高生もサラリーマンも人間模様は同じでは……