経済学エッセイというと、なんにでも市場主義を導入し、お金で解決すればいい結果になるのです、的なものが想像されそうだが、著者はそれは浅い理解だという。たとえば、子どもに小遣いをあげて家の皿洗いをさせるのはうまくいかないだろうというのだ。それは子どもの心理、何にインセンティブを持つかを本当によく考えていないことによる。子どもには、むしろ家族の一員であること、家族の義務を話してやらせた方がうまくいくだろうという。逆にお金を払った方がうまくいく場合はどんなときなのかも列挙されており、お金で解決というのは決して万能ではなく、効く場合と効かない場合があると書かれている。
いろいろなエピソードで、インセンティブのためには、その人の心理や価値観、暮らしている社会システムへの洞察が必要であることを書いている。経済学はインセンティブの学問だというのだが、話題は幅広くあちこちに飛び、体系だった事柄を述べる本ではないので、これが経済学というジャンルの本だといわれても、どうかなあという感じがする。むしろ心理学の本と言われた方が納得がいく。
美術館での絵画の楽しみ方は「自己愛(原語はミー・ファクターだそうだが、この訳語でいいのかどうか?)」を最優先にせよという。市場で売られる絵画には、実際に「自己愛」を反映した高く売れる絵の法則があるとか。小説や音楽、映画への「自己愛」の関わりも書かれている。映画や小説では、「自己愛」を発揮して、興味をひかれたものだけをつまんで残りを切り捨て、音楽に関しては「自己愛」をゆるめて、いろいろなジャンルに触れるのがよいそうだ。
シグナリングに関する記述は興味深い。シグナリングとは、コストのかかる行為でメッセージを伝えることだ。女性へのプレゼントが花束やダイヤモンドなど、実用性が薄いものであるのは、それがシグナリングだからだ。家庭内では、現金よりもシグナリングのほうが重要だという。カウンター・シグナリングというものもある。たとえば天才プログラマーが、就職の面接にノーネクタイで現れるようなことだ。
おいしい食事をするためのtipsの章も面白い。外食がおいしいのは、貧富の差が大きい国だという。一部の富裕層のために、安い労働力をふんだんに使えるからだ。アメリカの状況もこれに近く、たとえばアメリカのフランス料理店では移民のメキシコ人コックが働いている。ある街でおいしいレストランを探すのなら、賃料が安いと思われる場所に行くといい。
そのほか、寄付、チップ、プレゼントに関するコストとインセンティブとか。小ネタがたくさん拾えるタイプの本でした。
タイラー・コーエン 日経BP社 2009-10-22
吉原真里さんのブログでお勧めされていたので観ました。
ルイス・カーンは有名な建築家だが、その生涯について私はほとんど知らなかった。彼は、若い頃から建築家になることを志していたものの、建築ではなかなか稼げずに妻が働いていて、50代で初めて妻の援助で建築家として自分の事務所をかまえ、その後名声を得たのだが、その時点から死去するまでは10年ほどしかなかった。その間に精力的に建築設計をしたのはもちろんだが、最初の妻との子どものほかに2人の愛人に各1人ずつの子どもを作っていた。その私生児ナサニエル・カーンが、監督、脚本、出演をつとめ、彼が11歳だったときに死んだ父親の足跡をたどるというドキュメンタリー映画。
始まって10分くらいで、私が実際に見た2つの彼の建築、イエール大学の美術館とブリティッシュアートミュージアムが出てきたのがちょっと嬉しく、懐かしかった。
そのほかの建築としては、ソーク研究所もよかったが、やはり最後の、バングラデシュ国会議事堂と、地元の建築家によるルイス・カーンの人物像に対するコメントがとても印象的だった。
2人の愛人は、それぞれ建築家とランドスケープ・アーキテクトで、ともにルイス・カーンと協働する立場の女性だった。そして2人とも生涯誰とも結婚せず、私生児を育てあげた。この2人のルイス・カーンを語る表情とコメントもとてもよかった。
父親が同じで母親の違う子供3人が集まって話すシーンがあるが、これを撮るのに乗り越えるハードルはどんなものだっただろう、とも思った。
20年ほど前に亡くなった(この映画を撮った時点で)ルイス・カーンについてコメントしているのは、建築や都市の分野で一仕事終えたという感じの老年期に入った人たちが多いのだけど、なかでもルイス・カーンが住んでいたフィラデルフィアの都市計画に関わっていたエドモンド・ベーコンは、この映画に登場する人たちはほとんどルイス・カーンを褒めたり評価したりしているのに、けちょんけちょんにけなしている。現在のフィラデルフィアの都市にルイス・カーンの意図は一切現れていない、それでよかったというようなことを言っているのだが、その言いようがなんともコミカルで笑ってしまった。ルイス・カーンは、自動車を入れないで歩行者のみの都市をつくりたかったようで、今でこそ意味があると思われる考え方だけれど、おそらく50年代くらいのモータリゼーション全盛期には早すぎる提案だったのでしょう。
試しにちょっと見てみたいという人には、監督のナサニエル・カーンがTEDでしたスピーチが以下にある。映画の映像も一部入っている(映画ではカットされていたシーンもある)。
ナサニエル・カーンがドキュメンタリー映画「マイ・アーキテクト」を語る | Video on TED.com
ナサニエル・カーン TCエンタテインメント 2006-09-22
人間は今までに使ってきたテクノロジー、たとえば、言葉を書くこと、本、時計、地図などによって世界の認識のしかたを変え、脳の配線を変えてきた。
そしていまインターネットも脳を変えつつある。それは、読む量も考える量も細切れで断片的になり、かつて読書(本というテクノロジー)によって形作られた、深いオリジナルな思考をやりにくくし、注意散漫で表面的な思考に適した脳に作り変えているのではないか、ということを脳科学などの大量の研究を引用しながら語る。
たとえば、同じ文章をリンクをつけたハイパーテクスト形式で読むのと、普通のテクストで読むのを比べた場合、後者の方が内容に関する理解度が高いという研究結果がある。ハイパーテクストでは、読み手はリンク先にジャンプするかどうか考えないといけないので、その分内容を理解することに脳のリソースを割けなくなるからだ。
著者のニコラス・G・カーは、ネット環境がADSLしかない田舎に引っ越しまでして、ほぼネット断ちの環境を整えて本書を書いたそうだ。しかし執筆の終わりが見え始めたら、またネット漬けの生活に戻ってしまったという。
というわけで、コンピュータ・インターネットによって人間性が変わる(それも、より浅薄なほうに)だろうという予測の本なのだが、本書のタイトルから予測されるようにそれを一方的に叩いているわけでもなく、著者も経験したとおりそれは避けられないものとしながら、「われわれはみずからこれを考察し、何を失いそうになっているかに注意を払う責任がある」という注意喚起の書、と言ったらいいのかな。
個人的には、インターネットも嫌いではないけれど、「コンピューター時代以後の脳」に完全になってしまわないように、意識して本を一冊読み通す集中力を確保し、自然の中を散歩する余裕を持っておきたいと思いました。
横浜に行って、ジャック&ベティで『アンダーグラウンド』という映画を観てきました。ユーゴスラビアとかチトーについて知識がない人はwikipediaでも読んで予習をしてから観た方がいいかも。とはいえ私は観てから読みました。迫力があり、戦争の悲惨さを訴えているけれどもくそまじめではなく、人間のむちゃくちゃさが描かれている映画でした。この監督の映画をもっと観たいと思いました。
amazonではDVDがかなり高騰しているようで、今回私が観たような再上映の機会を待たないとなかなか安くは観られないみたいですが、機会があればみておくことを勧めます。すごい映画でした。
ミキ・マノイロヴィチ パイオニアLDC 2001-07-21
ブラスバンドの迫力ある音楽もよかった。
Various Artists Universal I.S. 1997-07-01
映画では戦乱のシーンが多く、終わってからイセザキモールを歩いていて、まわりの平和さに違和感があるほどもっていかれました。
その後ずっと海側へ歩いていきました。

山下公園では、秋バラがきれいでした。




ホテルニューグランド。ここのthe cafeで、お昼を食べました。

私の場合、ひとりで食べるお昼に高めの値段を払うのは味よりもいい空間を楽しみたいと思っているからで、そういう意味ではthe cafeは天井の低い圧迫感のある空間でいまいちだったかな……このホテルの中なので期待していたのだけど。

と、思って、ホテル正面の階段を上がってみたら、素敵な空間が!

以下の写真は、宴会場のロビーです。ここが、普通の宿泊客やレストランの利用者が通ったり利用したりする場所ではないのがもったいないと思います。ちらほらと人は来て休んでいましたが、ここでお茶とか飲めればいいのにと思いました。




絨毯の色と柄も素敵でした。

ヴィクトリア朝のイギリスが好きという人は多い。文学では、ディケンズやブロンテ姉妹が活躍し、コナン・ドイルはシャーロック・ホームズを生んだ。近代という時代には、レトロな懐かしさと現代的な生活の萌芽との両方が感じられる。ウェルズは、そんなヴィクトリア朝末期および次のエドワード朝に活躍したイギリスの作家だ。『タイムマシン』『宇宙戦争』などを著し、ジュール・ヴェルヌとともにSFの父と呼ばれる。
本書はウェルズの短編集だ。「盗まれた細菌」では研究所を訪ねた無政府主義者が、科学者からコレラ菌の入った試験管について説明され、それを盗み出す。水源に投入して、現代風に言えばバイオテロを敢行しようとしているのだ。そこで試験管を持って辻馬車で逃げた犯人を、やはり辻馬車で追いかける科学者。靴も履かずコートも着ずに追いかけ始めた科学者をさらに辻馬車で追うその妻と、カーチェイスならぬ辻馬車チェイスが展開される。
「初めての飛行機」では、主人公のベッツは、彼が若かった頃、飛行機が個人向けに売られ始めた初期のことを回想している。彼は飛行機を購入し、操縦して飛行したが、トラブルによって飛行機はロープにつながった鉄柱を引きずったまま飛行し、引きずり回された鉄柱は村の人々に多大な損害を与えた。まだ個人による飛行のルールが定まる前の時代だったといえ、飛行前の確認・点検はパイロットの重要な任務だ。しかも、一度着陸して迷惑をかけたことが明らかになってからも、調子に乗って再度の飛行を試み、さらに迷惑の度合を大きくした。しかし彼は自己正当化ばかりで、ほとんど反省しない。
「小さな母、メルダーベルクに登る」ではベッツは登山経験も少なく、気候のコンディションも悪いのに年老いた母親をつれてメルダーベルク山への登山を試み、また危険な目に遭うが奇跡的に母親ともども無事に帰ってくる。
登山中、岩山を登ることなど無理な老いた母親をハンモックでくるんで、荷担ぎに運ばせていたのだが、くるまれた状態で岩山からロープでぶらさがって、みの虫のように空中に揺れていたという描写には笑ってしまった。母はベッツよりは常識人だが、やはりこの母にしてこの子ありの”天然系”老女で、息子が無茶な冒険をしても平気でついていくところがある。
ベッツの性格ならば、若い頃にはこの2作に登場する以外にも危険で迷惑な冒険を重ねてきたはずで、彼が若い頃を回想できるほど長生きできたのは、よほどの強運の持ち主だからなのだろう。
冒険好きでナルシスティック、周りの迷惑をかえりみず、危険なことでもやりたいと思ったらなんとしても実行してしまう。ベッツはかなり困った人物なのだが、それでも彼が振り返る若き日の冒険の美しさには抗えない。
ほかの作品の多くにもみられるのは明るさだ。各短編中に危機はあるが、主人公たちはなんとか切り抜けることが多く、からりとした読み応えがある。
ハーバート・ジョージ ウェルズ 光文社 2010-07-08