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ビザ面接@米国大使館

カテゴリー : アメリカ生活 — 2009/09/12

アメリカへの非移民ビザ申請(おもにDS-156記入について)の続きです。昨日、ビザの面接のため夫と一緒に米国大使館に行ってきました。

あらかじめ、webで9月11日の8時15分からの予約をしていたので、8時ごろに大使館に着きました。まず門の近くにある小さな建物で、セキュリティチェックがあります。パソコン、携帯、デジカメ、iPod、USBメモリ等はここで預ける必要があります。また飲食物も持ち込み禁止ですが、預かってもらえないので捨てるしかありません。空港によくあるような持ち物のX線検査があって人間はゲートをくぐります。

その後、大使館の建物に入るときに書類のチェックがあり、不備がある人はここで指摘されます。私たちは書類のうち1箇所サインをすべきなのにしていなかったので、ここでしました(その場で修正できる不備でよかった)。それからビザ面接待ちの部屋に入ります。

面接といっても、就職面接みたいに個別に部屋に呼ばれて椅子に座ってするものではありません。面接待ちの部屋にいた人数を考えると、そんなのんびりしたやり方では全員さばけないと思われます。イメージとしては空港での入国検査に近い感じで、面接待ちの部屋の前部分に区切られたカウンターがたくさんあって、放送で名前を呼ばれたらそのカウンターに行き、最初は指紋(左右の5本指全部)を取って、その後また別のカウンターに呼ばれたら、カウンターのガラス越しに立ったまま面接を行います。

8時15分からというのはその日の最初の予約のようで、最初面接待ちの部屋に通されたらカウンターは全部閉まってました。カウンターが開いて面接が始まるまで30分くらいかかったかと思います。本を読みながら待ち、自分が指紋を取り面接を全部終わらせるまでは、1時間程度でした。あらかじめwebで予約する際にも1~2時間の待ち時間は生じると書いてあります。たぶん、8時15分からの回は、その日の最初なので、前の時間からずれこむ人がいないので、比較的待ち時間を短縮できるかもしれません。

また、9月11日だったため、大きな白い花輪が届いていたのを帰りに見かけました。

(追記:ちなみに9月11日の金曜日に面接を受け、ビザを貼り付けしたパスポートや書類が返送されてきたのが翌週の火曜日、15日でした。かなり早いものだなあと思いましたが、私たちの日程的には結構ぎりぎりでした。早く取っても減るものではないので、早めの取得をおすすめします)

NHK、プロバイダ、新聞を止める手続き

カテゴリー : アメリカ生活 — 2009/09/11

NHKの解約は、NHK受信料の窓口-放送受信料 住所変更のお手続きの下部の問い合わせ番号に電話したんだと思う。このページを見ても分かるけれど、海外に転居するので廃止する場合の解説はNHKのウェブサイト内にはないが、電話してそう伝えれば普通に廃止できる。

出発日は9月下旬だが、9月31日時点で契約が終わっている場合は振り込み済みの9月分の受信料が戻ってくるとのことで、それを振り込む口座を伝えた。そのほか、日本の連絡先が必要とのことで実家の親にした。数日後に書類が郵送されてくるので、それに記入して返送したら解約が成立する。口座への振込みは3週間後くらいになるそうで、すでに日本にいない可能性があるので、ネットバンキング等で確認してほしいとのこと。

プロバイダは、NTT東日本のBフレッツとasahiネットに電話した。まずNTT東日本に電話して、お客様IDとかを訊かれるんだけど、契約して最初に送ってくる書類とかに書いてあるらしいんだけど、その後そんなもの使わないし書類もない。でも結局申し込んだ電話番号だけで解約の申し込みができる。NTTから袋を送ってくるから、そこにモデム等を入れて返せばいいとのこと。

asahiネットは、電話では解約申請書を郵送してくるので記入して返送してくれと言われたが、数日後、「解約手続きが完了しました」という特に返送するところもない葉書が届いた。9月いっぱいの解約で日割り計算などには応じていない。NTTではモデム等の返送だけでいいと言われたのに、asahiネットでは解約の際に工事が必要なはずなので、その件でNTTに聞いていないなら問い合わせろ的なことを言われたので、再度NTTに問い合わせたら、NTT局内の工事で私の立会いとかは必要ないとのこと。

以前別の部屋に住んでいたときには、そのマンションはgyaoとしか契約しておらず、Bフレッツを選べなかったので、gyaoの光回線を契約していた。2007年末に解約したときはgyaoの会員サイトにログインして(それまでログインする必要などなかったのでログインIDもパスワードも覚えてなくて、住所・氏名・電話番号・メールアドレスをIDとパスワードを取り寄せるために入力したら、「2~3日後に発送します」と表示され)、ログインしてから解約のための用紙を請求し(郵送で送ってくる。ダウンロードくらいさせろ!)、解約日は契約解除届出書を郵送した日(当日消印)から1ヶ月後になるが、解約が完了したかどうかはgyao側からは連絡しないから(メール1本くらいよこせよ!)、電話で確認しろというが、サポート電話は延々と待ってもつながらないというありさまで、プロバイダは解約ポリシーが大事だなと身にしみて思ったのだった。これで解約期限が1ヶ月違うのだったら、100円くらいの月額使用量の差でプロバイダを選ぶのは本当に意味がない。回線品質には特に不満はなかったけれど、以後絶対にgyaoは使わないと決めている。

次は新聞(日経)だけれど、こういう購読料サービスは解約方法を分かりやすく表示するということはほとんどないんだなと思った。こういうときは購読のためのページに電話番号が書いてあるので、そこにかけて「解約したいんですけど」と言うに限る。というわけで、新聞購読のお申し込み|NIKKEI4946.comの「お問い合わせフリーダイヤル」にかけて、住所を言って管轄の販売店の電話番号を教えてもらい、販売店に解約したい日を伝えた。

上記3つのうちプロバイダは9月末までだし、残り2つはもし出発日が遅れてまだ日本に残っていてサービスを受けられなくても別に構わないものを止めた。

あとインフラ系は携帯、電気、ガス、水道だけど、これらはビザがおりて本当に出発する日が確定するまで止めたくないので先送り。携帯(ドコモ)はドコモショップに行くだけでいいらしい。2年縛りにしちゃったから違約金がかかりそうだなー。本体割賦払いにしてるからその分のお金もあるわ。電気、ガス、水道もたぶん電話1本で止まるのではないかと思う。

明日は米国大使館でビザ面接だー。

千葉敦子年表

カテゴリー : 本・雑誌・漫画 — 2009/09/09

最近(2009年9月9日現在)、Wikipediaに乳がんで亡くなった国際ジャーナリストの千葉敦子の項目を作ろうという機運が盛り上がっているようです。Wikipediaに一旦は千葉敦子の項目が作られたのですが、それが削除されたのは、はてなキーワードの「千葉敦子」の項目をそのままコピーしており、それがキーワードの著作権を持つ株式会社はてな権利を侵害していると考えられたからのようです。

ところで、単純な事実の羅列に過ぎませんが、はてなキーワードの「千葉敦子」の項目を書いたのは、私です。私としては、自分の書いたものがWikipediaにコピーされても全く問題ないのですが、キーワードに書いた時点で株式会社はてなに著作権を譲り渡してしまっていたのですね…。

というわけで、以前千葉敦子の伝記を書きたいと考えていた頃に作成し、ハードディスクに眠っていた千葉敦子の年表をここに掲載します。間違いがあるかもしれませんので、ご指摘があれば反映したいと思います。このままでは引用が多すぎてWikipediaには使えないと思いますが、自分の言葉で書き直す余裕がないので、この内容をまとめてWikipedia等に投稿していただくのは歓迎します。

なお、著作情報については千葉敦子の著作一覧: つらつらぐさを参考にさせていただきました。どうもありがとうございます。

著書からの引用部は極力そのままにしましたが、一部年号などを漢数字から数字にしています。

年表

1940年(0歳)

11月6日、上海に生まれる。(『「死への準備」日記』の著者プロフィールより)

1945年(4歳)

韓国の馬山に疎開、数ヶ月で上海に戻る。

1945年、母と私と妹の3人は、韓国の馬山に数ヶ月疎開していたが、敗戦直前に父が迎えに来て上海に戻ることになった。(『乳ガンなんかに敗けられない』p.213)

1956年?(16歳?)

日比谷高校入学?

私の通っていた高校には、ケタはずれの秀才や15歳で世界の文豪の作品を大方読破していた読書家や、英独仏の三ヶ国語を読み話せる人がいました。先生を困らせるくらい数学が出来て歌舞伎に通じていたり、すべての科目の成績がズバ抜けてよくて一流のピアニストについてレッスンを受けていたり、(略)この高校の男女生徒数がきわめてアンバランスなため、何人かの男性の愛を受けるはめになったのですが、私が未経験で、相手の自尊心を傷つけずに愛情を断ることができなかったのです。そのため、何人かの男性をひどく苦しませる結果になり、私自身もそのことで苦しみました。(『ニュー・ウーマン』p.230)

1958~1964年(17~23歳?)

学習院大学政経学部。1958年入学は浪人なしの場合。留年している? いったん婚約したが、婚約を破棄。

大学生のときに一度婚約を交わした男がいるのです。(略)私は卒業後も自分の仕事を持ち、独立したキャリアを築くつもりで、婚約者ももちろん賛成していましたが、それでもここで家庭を築き根を下ろしてしまうのは、本当に私がしたいことではないのだという認識が日に日にはっきりしてきました(略)彼に話して婚約を破棄したのです。(『ニュー・ウーマン』p.221-222)

1962~3年?(21~2歳?)

大学3年の秋、父親が死去。家計を支えるため大学院進学を諦めて就職することに決める。

大学3年生だった前年に、私の人生の計画は大変更を迫られていました。それまでは、大学院に進学して勉学を続けるつもりでいたのです。というのは、私は大学の水準に大変不満で、もっと高度のacademic background(学問的なキャリア)を持つ必要があると痛感していたからです。ところが3年の秋に父が亡くなり、のんびり勉強を続けるという態勢は不可能になりました。大学に入学してから、授業料は特待生で奨学金をもらっていましたし、その他の費用は外人観光客のガイドや家庭教師をして稼いでおり、親からは半独立の形になっていましたが、これからは家に収入を持ち込まなければならなくなったのです。(『ニュー・ウーマン』p.67)

 いまも私は、あの屈辱的だった大学四年生の夏を忘れることはできません。(中略)ほとんどの社が大学卒の女性を高校卒と同じ待遇でしか雇わないというのです。(中略)悪戦苦闘のすえに、ようやくジャーナリズム関係の数社の試験を受けることができました。募集要項には大卒男子とだけ書いてある社も、人事部をたずねてネバると受験だけはさせてくれるところがありました。(中略)最初から女を区別して使うところが多く「男と給与、待遇が全く同じ」という会社はほとんどありませんでした。

 結局、当時財政的に破産状態に近かった新聞社に就職を決めたのは、表面的には給与が男女同水準であったこと、(中略)初任給は同級生中最低でしたが、同じ新聞社に勤める男子社員も同じ金額でしたから苦になりませんでした。(『ニュー・ウーマン』p.66~68)

1964年(23歳)

学習院大学政経学部卒業。東京新聞社入社、経済部に配属。

 新聞社に入りまして、まず最初の大きな難題がやってきたのは入社三か月にもならないときでした。(中略)私は第一希望経済部、第二希望外報部と出しました。(中略)
 ところがです、数日後に壁にはり出された事例をみると、なんと婦人家庭部配属になっているではありませんか。(中略)新聞社側ではそれまでにニュース取材部門に女の記者を採用したことがありませんでした。そして労働基準法で女子の深夜労働を禁じているから採用できないという論法を持ち出してきました。朝刊紙を出している以上、深夜労働は記者にとって当たり前になっていますから。(中略)
 しかし、私は負けてはいませんでした。法律の主旨をちゃんと理解して欲しい、使用者側が深夜労働で強制するなら問題になるだろうが、こちらから志願して深夜働かせて欲しいと言っているのだから……と訴えました。
 そして切り札として、もし婦人家庭部に配属されるなら即刻退社する、という意思を表明しました。(中略)
 社会人一年目の試練は私に次のような教訓を与えました。前例がないという口実で拒否に出会った場合は、それまでの習慣を破るべく全力を尽くして「やってみる」こと。いつ職を失っても食べていけるような手段を身につけておくこと。女を差別することが使用者側にとっても損であることを、仕事を通じて示すこと。
 ともかくも、やってみれば道が開けることもあるのだという体験を職業生活一年目にして得たわけです。その後もずっと私のキャリアは「前例を破る」ことの連続です。(『ニュー・ウーマン』p.70~74)

1967年(26歳)

ニーマン・フェローシップを得て、ハーバード大学大学院に留学。都市経済学を専攻。その後ヨーロッパ諸国、イスラエルを旅行。

都市経済学を専攻した大学院での9ヶ月は非常に充実したもので、米国国内およびカナダへ数回の旅行もした。さらに終了後ヨーロッパへ廻り、イスラエルにまで足を伸ばし、東欧・ソ連を含む4ヶ月の旅をした。この経験が私の人生観を変えた。狭い国の狭い新聞社内で一生を過ごす必要はない。世界的な規模の市場で自分の力を示すことが可能なはずだ……帰国後三ヶ月で東京新聞を退社した。(『乳ガンなんかに敗けられない』p.206)

私自身が直接中東に足を踏入れたのは、1968年夏にイスラエルを訪問したのが初めてで、カーキ色の制服に身を固めたイスラエルの女兵士や、ガザ地区のアラブ難民、また戦勝したダヤン元帥の写真を敵側の指導者と知ってか知らずか、外国人に売りつけようと走り回るアラブ人の子供たちが強く印象に残った。(『敵視の狭間で』訳者あとがき p.246)

1968年(27歳)

留学から帰国3ヶ月後、東京新聞社を退社。

新聞社を去ってすぐに望んだとおりのフリーランサーになれたのではない。まだ商品として売れるだけの英語が書けなかったので、アメリカ人の経営する広告会社にはいってニュースレリースの原稿などを書いたり、欧州の銀行相手の調査会社をみずから経営し、英米人の書くレポートを監修したりして文章力を養った。(『乳ガンなんかに敗けられない』p.207)

大学を出てから10年間に、私は1年間の大学院留学をはさんで4回転職をしています。職業は新聞記者→PRアカウント・エグゼキュティヴ→PRディレクター→調査会社取締役副社長→フリーランス・ジャーナリスト、というわけです。スカウトによる転職が2回、こちらから選んで移ったのが2回です。最初の職には3年9ヶ月、現在の仕事には7年と長いのですが、途中の職はすべて2年以内でかわっています。(『ニュー・ウーマン』p.78)

ジャーナリズム以外の分野での私の力を認めて、実際に私を二度にわたってスカウトしたのは、松岡秀太郎という日本人には珍しいタイプの実業家です。(略)彼が帝人の宣伝部の若手社員であり、私が東京新聞の駆け出し記者の時代で、私が取材に出かけて行って知り合ったわけです。彼は女性の能力に全く偏見のない人で、新しく設立した広告会社にPRディレクターとして私をスカウトしたあと、全く新しい型の調査会社を私とともに設立し、私にその運営を任せたのでした。(『ニュー・ウーマン』p.80)

1969年(28歳)

初の著書『アイデア商人』(KKベストセラーズ)

1974~75年(33~34歳)

1974年末~75年にかけて、フリーランスの国際ジャーナリストとして活動を開始している。

1974年11月ジャーナリズムに復帰。現在、”Fortune” “Asian Wall Street Journal” “Australian Financial Review” “Institutional Investor” “Asian Business & Industry” の東京特派員をつとめるかたわら、各国の新聞・雑誌に日本の政治・経済問題を寄稿している。(1976年発行『敵視の狭間で』訳者プロフィールより)

たまたま友人の英国人記者クリス・リードが日本を去ることになったので、彼が引き受けていた「フォーチュン」誌のための経済人プロフィールを引き受けて、フリーランサーとしてスタートしたのが1975年1月である。準備期間に新聞社をやめてから6年をかけたことになる。(『乳ガンなんかに敗けられない』p.207)

過去9年近く「アジア・ウォールストリート・ジャーナル」「インスティテューショナル・インヴェスター」「フォーブス」「フォーチュン」「オーストラリアン・フィナンシャル・レヴュー」といった世界各国の一流誌紙に寄稿してきた(1983年時点での記述:『昨日と違う今日を生きる』文春文庫 p.59)

1976年(35歳)

唯一の訳書『敵視の狭間で 対話/アラブ・イスラエルに愛は甦るか』 アモス・エロン、サナ・ハッサン著(TBSブリタニカ)出版。

1980年(39歳)

12月24日に左乳房に乳ガンによるしこりを見つける(『ニュー・ウーマン』『昨日と違う今日を生きる』『乳ガンなんかに敗けられない』)

 私が左乳房の上部にしこりを発見したのは、1980年12月24日の朝でした。
 予備知識を持っていたので、乳ガンに違いないと判断、すぐに病院を選んで検査を受け、1981年1月28日に手術を受けました。(『ニュー・ウーマン』p.60)

1981年(40歳)

1月28日、乳ガンのため都立駒込病院で乳房切断手術を受ける(『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)p.164、『ニュー・ウーマン』p.60)

このときのガンは直径2センチ以下、周りのリンパ節やわきの下のリンパ節への転移ゼロで、まず再発はないもの、というのがそのときの医師の判断でした。私自身も大変元気で、その年の夏にニューヨーク・パリ旅行、その秋に韓国旅行に出ているくらいで、以前と同じ生活に戻っていました。(『よく死ぬことはよく生きることだ』)

プレスクラブの機関誌として月間の「ナンバーワン・シンブン」があるが、「ニューヨーク・タイムズ」のバック・サープは、1981年4月号に私の病気に関する記事を友情溢れる筆致で書いた。「ガン・敦子の物語」と題したその記事は、おもにガンに直面した私のジャーナリスト精神を描いたものだが…(『乳ガンなんかに敗けられない』p.222)

初の乳ガンに関する著書『乳ガンなんかに敗けられない』(文藝春秋)出版。単行本版・文庫版ともに切除前のしこりのある乳房の写真が掲載されている。

切り取ったガンの病理検査の結果からみて、再発の可能性が低いことを知らされましたので『乳ガンなんかに敗けられない』という、勇ましいタイトルの本を書いたのです。これは、乳ガン手術を受けた直後の病院のベッドの上で書き始めて、数カ月のちに文藝春秋から刊行されました。(『よく死ぬことはよく生きることだ』p.38)

1982年(41歳)

キャリアウーマンとしての生活法などを綴った『ニュー・ウーマン』(文化出版局)出版。
乳ガンに関する著書『わたしの乳房再建』(朝日新聞社)出版。

1983年 (42歳)

6月にガンが再発、鎖骨の上のリンパ節に転移(『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)p.164)

83年夏に首のつけ根のリンパ節にガンが再発しまして、これには放射線をかけまして退治しました。ここまでの治療は東京で受けました。(『よく死ぬことはよく生きることだ』)

渡米、ニューヨークに移住する。(『ニューヨークでがんと生きる』)

自分自身の死がそんなに遠くないかも知れないと考え始めたのは、83年の再発のときです。手術でガンが全部取れなかった、ということが分かったわけです。(略)そういう、あまり遠くないかも知れない死の可能性を知って、どうしたかといいますと、まず、そのときに計画していた、ニューヨークへの引っ越しを実現しよう、という決意でした。(『よく死ぬことはよく生きることだ』p.38)

83年の暮に東京・西麻布のアパートを引き払い、ニューヨークに移り住むにあたって、一万冊近くの蔵書の大半を友人に買い取ってもらったり、進呈したり、全国の図書館に寄付したりして処分しました(『ニューヨークの24時間』(文春文庫)p.204)

読書日記『千葉敦子のななめ読み日記』(同時代社)出版。
男女関係に関する著書『寄りかかっては生きられない』(光風社出版)出版。

鈴木健二さんと草柳大蔵さんの女性論に反発を感じて『寄りかかっては生きられない』(光風社出版・1983年、文春文庫、1989年)という本を書いています。(『ニューヨークの24時間』(文春文庫)p.190)

箙田鶴子(えびらたずこ)氏との往復書簡『いのちの手紙』(箙田鶴子との共著)(筑摩書房)出版。

1984年(43歳)

がん2度目の再発、胸のリンパ節に転移(『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)p.164)

引っ越して半年たった84年夏に、今度は胸の内部のリンパ節にガンが再再発しました。二度も再発するのは、大変危険な兆候ですので、今度は患部に放射線照射をしたあと、抗ガン剤を静脈から入れる化学療法を七ヶ月受けました。全身に散ってしまったかもしれないガンを退治することを目的としたわけです。(『よく死ぬことはよく生きることだ』p.10)

このときは、非常に大きな試練だと受け取りました。とにかく、三度目ですから、私の身体の中にいるガンというのは、相当したたかなヤツで、切り取っても、放射線をかけても全滅しないということが分かりました。その上、原稿がなかなか売れなくて、職業的な困難にも見舞われていましたし、従って経済的困難にも陥っていたわけです。(『よく死ぬことはよく生きることだ』p.39)

1985年(44歳)

日本人論『ちょっとおかしいぞ,日本人』(新潮社)出版。

実は、1983年の3月から10月までの8ヶ月間、腹の立つ新聞、雑誌記事を見るたびに切り抜き、不愉快な目に会うたびにメモをして、それを本に仕立てたのが『ちょっとおかしいぞ、日本人』(新潮社、1985年)という著書なのです。いえ、怒りをそのままぶちまけたり、不愉快さをこぼしたりした本ではありませんよ。(『ニューヨークの24時間』(文春文庫)p.190)

1986年(45歳)

秋にがん3度目の再発(『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)p.164)

ニューヨークでの生活スタイルを紹介した『ニューヨークの24時間』(彩古書房)出版。
『ニューヨークでがんと生きる』(朝日新聞社)出版。

1987年(46歳)

東京新聞の取材『ガンと闘いながら』を受ける。2月23日~25日に掲載。『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)に収録。

仕事は、新聞と週刊誌に連載を持っているほか、単発の記事を月刊誌に書いています。「家庭画報」に青少年とエイズの問題、「文藝春秋」にテレビニュースキャスターの話など。それから、「ウーマン・ウォッチ」という、アメリカの女性の動きを知らせる月間ニュースレターを一人で発行しています。(略)毎月何万点もの女性に関する情報をコンピューターのデータベースで検索し、その中から日本に知らせたい項目を拾い出してニュースレターにしています。(略)一部(4ページ)八千円ですので、その程度の高度な情報を必要としている人に購読者は限られます。(『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)p.166)

7月9日、ニューヨークのスローン・ケタリング医院にて乳ガンのため死去、享年46。

『アメリカの男と女』(彩古書房)
『よく死ぬことは,よく生きることだ』(文藝春秋)
『「死への準備」日記』(朝日新聞社)

『千葉敦子のななめ読み日記』(三笠書房知的生きかた文庫)文庫化
『ニュー・ウーマン』(三笠書房)文庫化
『乳ガンなんかに敗けられない』(文春文庫)文庫化
『いのちの手紙』(箙田鶴子との共著)(ちくま文庫)文庫化

1988年

『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)
『若いあなたへ!』(偕成社)
『ちょっとおかしいぞ,日本人』(新潮文庫)文庫化

1989年

『「死への準備」日記』(朝日文庫)文庫化
『ニューヨークでがんと生きる』(朝日文庫)文庫化
『寄りかかっては生きられない』(文春文庫)文庫化

1990年

『ニューヨークの24時間』(文春文庫)文庫化
『よく死ぬことは,よく生きることだ』(文春文庫)文庫化
『ニューヨークでがんと生きる』(文春文庫)二度目の文庫化

1991年以降

1991年『「死への準備」日記』(文春文庫)二度目の文庫化
1994年『母への手紙』(意識教育研究所)
1995年『ニュー・ウーマン』(三笠書房)新装版

不明点

  • その場合、1964年学習院大学卒業というのは複数の本のプロフィールに書いてあるので、24歳で大学を出ていることになる。彼女のキャラクターからは留年・浪人は考えづらいが、戦後の混乱期ゆえ教育を受けられなかった時期もあったのだろうか?『「死への準備」日記』の著者プロフィールより1940年生まれを確認。誕生日についてはネット上では11月6日とするものが見つかったが、書籍では私は今のところ発見できていない。
  • 雑誌(確か文芸春秋?)に乳房を切除する前の上半身ヌード写真を載せていたはず。その他にも全体的に取材を受けた・掲載された雑誌などの情報が欲しい。

これから千葉敦子に入門するなら

上記年表でも長めに引用しましたが、雇用機会均等法以前にキャリアを切り開いた体験記としては『ニュー・ウーマン』が面白いです。『ニュー・ウーマン』でも触れられている生活の工夫系としては『ニューヨークの24時間』は『ニュー・ウーマン』後の生活法のアップデートについて書かれています。実は以前に私は「Life Hackerとしての千葉敦子」なんて文章も書きました。

ニュー・ウーマン―いい仕事をして豊かに暮らす法 (知的生きかた文庫)

著者/訳者:千葉 敦子

出版社:三笠書房( 1987-07 )

文庫 ( 274 ページ )



ニューヨークの24時間 (文春文庫)

著者/訳者:千葉 敦子

出版社:文藝春秋( 1990-06 )

文庫 ( 237 ページ )


そのほか、ガン闘病系についても、amazon.co.jpで著作が安く買えますので、年表を参考に選んでみてください。

更新履歴

2009.09.09 公開
2009.09.10 『ニュー・ウーマン』からの引用、特に最初の就職前後の部分を追加。生年のソースを追加。そのほか全体的に見直し。
2011.02.09 amazonを「千葉敦子」で検索した結果へのリンクを、amazon著者セントラルへのリンクに貼り替え

ニューヘイブンでの部屋探しについて

カテゴリー : アメリカ生活 — 2009/09/08

ビザが順調に取れれば、9月25日にアメリカ到着を希望していますが、部屋がまだ見つかりません。今まで部屋探しのためにやったことと、アメリカの不動産から受ける印象を書いてみます。ちなみに私は東京でしか部屋探しをしたことがないので、比較対象となる日本の不動産は東京のものです。

まず大変なのは、私たちは最短の場合半年しか滞在しないのに、アメリカでは最低1年からしか部屋を貸さないところが多いということです。なので、まずコンタクトを取るときは、半年借りたいがそれでもいいか、と尋ねるところから始まります。

一番よく見ているのはcraigslistのnew havenで、sublets & temporaryなら短期間で貸す部屋もありますが、こちらだと1~2ヶ月の部屋貸しが多いという印象で、半年という滞在期間はsubletには長すぎ、普通の契約には短すぎてなんとも中途半端です。

不動産会社が運営している物件と、個人が所有または借りているものを借りる(また借り?)物件とがあり、前者はapartment.comなどの不動産サイトによく載っており、後者はcraigslistによく載っています。ただし、不動産会社の物件でもcraigslistに載っていることもありますし、その逆もあります。subletは個人からのまた貸しのようです。

nLDKというのは日本固有の用語で、アメリカではベッドルームの数で1BR、2BR…のように表して大まかな広さを表現します。具体的な広さはn平方フィートと書いてあることもありますが、記載はないことが多いです。またベッドルームなしの、和製英語でいうところの「ワンルーム」はstudioと呼ばれます。夫婦2人で住むなら1BRが妥当だと思うので、それで探しています。

家賃は高いです。人口10万程度の一地方都市なのに、ダウンタウンの1BRで相場は1000~1500ドル程度です。私たちが東京で借りている以上のお金を払うことはもう覚悟しています。ダウンタウンで探しているのは、車を所有しない予定だから、車なしで生活できるエリアとなると中心部しかないからです。また、全体的に治安のよくない街で、ダウンタウンでも治安が悪くないエリアを夫の前任者に聞いて、その中から探しています。

街の様子を見たり、部屋の番地から目的の建物を確認するにはgoogleストリートビューがとても便利です。これがなければネットで部屋探しなどする気にならなかったでしょう。この1点だけでも(いろいろ問題はあるとしても)googleストリートビューを私は否定できません…。

東京で部屋探しをすると、家具付きの部屋というのはほぼ皆無だと思いますが、こちらでは少しは見つかるので(数としては、家具なしの部屋の10分の1程度?)、最短の場合半年しか滞在しないので、できれば家具付きの部屋がいいなと思って探しています。また家具なしの部屋でも、キッチン周りのオーブンや食器洗浄機、冷蔵庫などはついていることが多いです。集合住宅の場合、共有の洗濯機置き場があることも。私たちは飼う予定はありませんが、ペット可の部屋も多い印象です。

設備は略語で示してあることも多いです。a/c=air conditioner dw=dish washerなど。冷暖房代、ガス代、電気代などは家賃に含まれているところも、そうでないところもあり、物件ごとに「heat included(暖房代込み)」などと表示してあります。コネチカットの冬はとても寒く、マイナス10度とかになるらしいので、冬の暖房代は月80ドルくらいかかるらしいです。

よさげな物件を見つけた際のメール送信はおもに夫にやってもらっており、時々私も送りますが、返事が全然来ません。電話したらいいのかもしれませんが、それはまだやっていません。現地にも来ない電話もかけない英語が不自然な外国人が「半年だけ借りたい」と言ってくるのはうっとうしいだけなのかもしれません。メールを返してくれる相手でも、ある程度話が進むと、「ニューヘイブンにいる知り合いに部屋を見に来てもらってよ」などと言いますが、現地に知り合いなどいません…。

しかし、場所がよくて、家具付きで、半年で借りられるところはほとんどなく、たまに条件を満たしたところを見つけると、口コミサイト(後述)の評価が最悪だったり…。あるいは、やり取りする相手(個人)が、最初のメールから「この物件を貸すために労力を使いすぎたので、メールのやり取りをもうあまりしたくない」と言って来たり…(条件はよかったのだが、この人とのやりとりは2通目の返事は来なかったと思う)。家具なしの部屋になるのはやむなしかな、と思っています。

なんとなく物件チェックは続けていますが、着いてからホテルを5~6泊取って現地で探す方がいいのかもしれず、よくわかりません。

craingslistのほかチェックしたサイト

  • apartment.com:大手の不動産検索サイト
  • rent.com:同上
  • apartmentguide.com:不動産検索サイト、ニューヘイブンの結果。上記3つあたりはどれを検索しても似たような結果になる
  • myapartmentmap.com:不動産検索サイト、ニューヘイブンの結果。出ている物件は上記と大差ないが、建物単位ではなく部屋単位で情報が出ているが、結果的にはapartments.comに飛ばされる。単なるアフィサイトか?
  • YaleInternational:イエール大学国際部がやっているMLだが、イエール関係者でなくても誰でも参加できる。物品の売ります買いますがメインだが、たまに不動産情報が出る
  • apartmentratings.com:各アパートについての口コミサイトで、ニューヘイブンのページはこちら。酷評の書きっぷりが面白くて時々読んでしまう。これとか。日本にも同様のネットサービスができたら面白いかも?
  • Interim Quarters:コネチカット州内の家具付きの長期滞在を扱っている不動産会社のようだが、問い合わせたら現在ニューヘイブンには空き部屋はないと言われた
  • C. A. White:不動産会社のサイト。家具付きの部屋はなさそう。ここで扱っているCambridge Oxford Apartmentsは建物カコイイですねえ。家賃は載ってませんが多分高くて住めなさそう
  • The Chelsea Company:ニューヘイブン近辺の物件を扱っている不動産屋さん。craigslistにもよく出していて何度かよさげな物件について問い合わせたのですが返事が来たことはありません…。apartmentratings.comの評判も良い
  • New Haven Towers:いくつかのタワーマンションを運営している不動産会社?まだあんまり見てない
  • The Eli:不動産検索サイトでよく出てくるThe Eliという高級アパート。他のサイトでの紹介を見ると、中にジムとかもあったはず。apartmentratings.comの評判も良い。これを見ると1BRで1600ドル台の物件があるようで、Short Term Availableとも書いてあるので問い合わせたら、2600ドルという返事!さすがに高すぎてやめたが、1600ドル台ならいいのになぁ…
  • Yale Housing:地元の不動産屋さん。物件少ない
  • new haven apartments:地元の不動産屋さん
  • sublet.com:ニューヘイブンの結果。各物件の情報が少ない。まだあんまり見てない
  • Yale大学長期滞在者向け情報 – 寮、アパート(オン・キャンパス、オフ・キャンパス):上記と若干かぶっているけどリンク集。

国際免許証&アメリカでの運転予定

カテゴリー : アメリカ生活

国際免許証を取りました。東京の人の場合は国外運転免許証取得手続(本人による申請):警視庁に従ってパスポート、写真、現在の運転免許証を持っていき、お金を払えば問題なく取れると思います。

なお、アメリカで運転する場合は、私の場合はコネチカット州に行くので、コネチカット州公式サイト内の以下のページを参照しました。

Visitors from another country are permitted to use their valid out-of-country license here in Connecticut for a period of one year with an International Driver Permit obtained from your home country.

Note: If you have an International Driver Permit, keep it with your foreign operator’s license at all times.

つまり、コネチカット州内で国際免許証を使って運転できるのは1年限り(どのみち、国際免許証の有効期限も1年ですが)で、国際免許証だけでなく日本の運転免許証もつねに携帯していないといけないようです。州によっては国際免許証を使える期間がもっと短く、その後は州発行の免許に切り替えないといけないところもあるそうです。

ところで、私は10年以上東京に住んでいて、その間全く車を運転していないので、ペーパードライバーもいいところです。最初は渡米前に日本の教習所のペーパードライバーコースに通おうと思っていましたが、あんまり時間がなく、また渡米後仕事がある夫と違って私は時間に余裕があるはずだし、左ハンドルや冬の寒い中での運転に慣れる意味でも、現地で教習所に通った方がいいような気がしてきました(twitterでも在米の人などにお勧めされました)。

そこで「new haven driving school」などと検索してみて、Hamden Driving Schoolというところが見つかり、サイトを見る限りなかなかよさげなので、アメリカで教習所通いしてみるのもいいかなと思っています。

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