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上野千鶴子の発言に見る、フェミっぽい人が言いがちなテンプレートに反論してみる

カテゴリー : 社会・意見 — 2014/03/01

「女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!」上野千鶴子さんが描く、働く女の未来予想図 – Woman type [ウーマンタイプ]

一点目。

稼げる方がいい、などというのは当たり前のことだ。私たちはみな貨幣経済の中で生きており、モノやサービスを金銭で購入しているのだ。お金はないよりある方がいいし、稼げる方がいいに決まっている。

「稼ぐ力があれば生きていけます」などというのは「勉強ができれば東大に入れます」とか「野球がうまければプロ野球選手になれます」のような発言で、同語反復に近い。

たとえば、「資産はないよりある方がいいですよねー」という発言があったら、「当たり前だろう、だからその資産をどうやって作るんだよ」という話になると思うのだが、結論が「稼ぐ力が必要ですよねー」だと「何か言った感」が出てしまうのは不思議なことだ。

「稼ぐ力が必要」というのは結論ではなく、話のスタートであるべきで、じゃあどうやって稼ぐか、あるいは稼ぐのが得意ではない人はどうやって生きていくか、とかそういう話を求めたいところだ。

二点目。

フェミのテンプレとして「女子力を磨いて専業主婦になろうとしている若い女子に、最近は男性も専業主婦を求めないし、そもそも専業主婦を養えるほど稼ぎのある男性は少ないし、離婚・死別・DV等のリスクがあるから稼ぐ力をつけましょう、と、年長の女性として指導する」というのがあるが、ここで描かれている若い女性像とか女子力のあり方が古いと以前から思っている。世の中には専業主婦になりたい女性も、女子力を磨いている女性もいるだろうが、それは本当に上記のようなストーリーにあてはまるのだろうか。

女子力というのは、最近はむしろ稼ぐためにこそ必要となっていないだろうか。サイバーエージェントのキラキラ女子がいい例である。若く美しい、いかにも多数から好感をもたれそうな女子であることには経済的価値がある。彼女たちがメディアに出ていたら、不美人が出ているよりも確実に人目を集めるのである。

一方で妻に専業主婦を求める男性が、家に帰ってきてキラキラ女子みたいなのに迎えられたいかというと、まあ、そういう趣味の人もいるだろうが、そうでない人もいるだろう。男性の好みというのはそこそこバラけていて、女子力発揮タイプではない人も合う相手を一人だけ見つけることは可能だと思う。一方で仕事の場では、薄く広く多くの人に好感を持たれることが必要とされる。女子力の定義はいろいろあるが、そういう「典型的な女子」の度合いを高める必要があるのはむしろ仕事など社会と関わる場ではないか。

若い女性が専業主婦になりたいというのは、そういう労働力と女子力の両方で市場で査定されるのに疲れたから、撤退したいのではないかと思う。だから、専業主婦になりたい女性に「女子力ばかり高めていないで稼げ!」と言うのは何かズレていないか。いま専業主婦志向を持っている若い女性がどんな感じなのか直接知っているわけではないが、メディア状況から想像するに、女子力高める系というよりも、雑誌で言えばクウネルとか天然生活みたいな、反市場主義、エコ、スローライフ系の人たちなのではないかと思う。また、専業主婦になりたい、と思っていても、実際になれると思っているかどうかはまた別だ。

むしろ、稼ぐためにこそ、女の部分を売り渡さないといけないというところがあるのではないか。そりゃあ上述の「フェミのテンプレ」を使って「女子力より稼ぐ力を!」と説教する優秀な女性たちは女子力を使わずに実力だけで生きてきたのかもしれない。そもそも「若い女子へ生き方についてアドバイス」を求められてメディアに載るような成功した女性は。そういう人にとっては「女子力」と「稼ぐ力」は完全に別物なのだろうが、一般的にはどうだろうか。芸能界とか水商売とか特殊な業界でなくても、女子力をもって実力にしている働く女性って、結構いるのでは。

漫画にレーティングがあってもいいのではないか

カテゴリー : 本・雑誌・漫画,社会・意見 — 2013/08/26

最近話題になっている、「はだしのゲン」を図書館で閉架にすべきかどうか、などの問題について。

実際の経緯についてはあまり詳しく追ってないので、残酷な描写を含む漫画を子供に見せるのがいいのかどうかという問題にしぼります。

これは、メンタルヘルスの公衆衛生みたいな問題だと思うんですよね(専門家ではないので用語が適当ですが)。

最近、身体的なことや病気については、今まで当たり前だったことでも、たとえば、猛暑の中で甲子園で高校野球はおかしいのではないか? とか、甲子園球児のうち熱中症に倒れるのが100人に1人、あるいはそれ以下だったとしても、配慮すべきと言われるようになってきていると思う。対象が未成年で自主的に選べないものについてはなおさら。

なのに、はだしのゲンを小学生で読んでトラウマになるのも経験のうち、みたいなことを言っている人をよく見かける。そういう人はそれをメンタルヘルスにまで拡張して考えていないし、その人にはトラウマというほどの傷も残らなかったんだと思う。実際にはそういう人が多数派だとは思うが、個人の経験だけで語るのはどうなのか。

こういうのはちゃんと発達心理学の専門家の意見を聞いて、映画のように漫画もレーティングするとかはあってもいいと思う。

図書館にあるのを自分が選んで読むのだからいいではないかという意見もあるが、あたりまえだけど読む前にはどういう表現があるのか本人も知らない。それを子供の自己責任にするのは酷だし、親だって子供の読むものを事前に全部把握してこれならOKと言えるわけではない。

だから、親が参考にできる資料としてレーティングがあり、小学校の図書館には12歳未満にはふさわしくないとされる本は置かないとか、そういう状態になるのが望ましいんじゃないかと思う。書店で買う本については親がコントロールするという前提で。

「階級を超える進学」の話で、特に大学の先生に考えてほしいこと。

カテゴリー : 社会・意見 — 2013/08/10

低学歴と高学歴の世界の溝

大変話題になっている上記の文章ですが、本題からそれるけど気になっていることを書きます。特に、大学の先生に考えてもらいたいことです。

私もこの増田の人ほどではないけど、両親・おじおばに四大卒はいません。同世代のいとこで四大卒はいるけど少なく、高卒が大半。そんな中で私と弟だけが国立大に進学し、私は大学院まで行きました。

言いたいのは、そういう家庭出身で、特にレベル高めの大学に入って、いきなり「大学は自分で学ぶところ」とか言われて放り出されるのはつらいということです。

高校までは参考書・問題集・塾などがあるし、問題が解けないというレベルなら先生に聞いて解けるようになることはできました。でも、大学に入って、レポートというのはどういう風に書くべきか、図書館でどう調べるか、研究とは、論文とはどういうものか、とか、ただでさえ難しいのに、それを「自分で学べ」と言われるわけです。私は大学院を出た時点でもまだよく分かってなかったと思います(←これはひどすぎるし自分の責任もあると思う)。大学の先生って、それまでの人生で見たことのない人種だし、あまりにも頭の悪い質問をするのははばかられる。自習しようにも、大学の教科書も、演習問題は載っているけど回答や解き方は載っていなかったりで不親切だし。

その後、アメリカの大学を訪ねる機会がありました。イエールとかUCバークレーのような、アメリカでもレベルが高いといわれる大学の生協にさえ、大学生向けの各教科の参考書とか問題集とか、どうやって大学で勉強するかという本などがたくさん置いてあって、日本の大学生向けには(私が大学生だった頃には)こういう本はなかったなーと思いました(公務員試験などに出る科目ならあるくらいか)。また、学生アドバイザーみたいな人がたくさんいて普通に機能しているとも聞きます。私が大学生の時に、そういう学問のやり方とか考え方について率直に聞ける人がいたらよかったと思いました。欲を言えば、大学の専攻を決める高校までにそういう人と話し合いたかった。

麻布中学では、卒論を書かせるそうですが、同じ中学校という名の教育課程を終えていても、こんなに差があって、こういう人たちと同じ大学に入ると「大学は自学自習」と言われて同じように放り出されるのはなんだかなーと思うわけです。

当時は私も自分の育ちについて客観的に見ることができていなくて、レポートとか論文とか全然イメージがわかないけど、みんなそんなものなのかなーと思いながら、なんとかそれらしきものをでっちあげたという感じですが、今にして思うと、同級生とそれまでに積み重ねてきたものの差がかなり大きかった気がします。

私の場合は、当時何が問題でどう助けてほしかったか分からなかった部分もあるので仕方がないですが、大学の先生は、大学に入るまで、大学での学問とか研究について全然イメージがわかなかったような人を、もう少し助けてほしかったと思います。大学の先生が、自分の仕事は各科目を教えたり研究したりすることであってそういうのは関係ないと思うなら、教えるのは大学の先生でなくとも、入学時などにそういうことを学べるようにできないのかと思いました。

政治は世代間闘争だ、だから若者は投票に行こう、というのは正しいのか

カテゴリー : 社会・意見 — 2013/07/19

【低投票率】菅原琢・東大准教授への朝日新聞記者(古田)のインタビュー – Togetter

そうそう、政治を世代間闘争的にとらえていて、若者が投票しないから、若者向けの政策があまりなく、老人向けの年金などだけは充実しているのだ、というメディアやネットでよく見かける意見には、いまいち納得していなかった。

人間は親―子―孫のようにつながっていて、多くの場合は助け合って暮らしている。たとえば子どものいる30代の夫婦が、子供のための教育予算を増やし、その分老人の年金は減らします、といわれたら本当に嬉しいのか。そのせいで親への仕送りが必要になったらプラマイゼロだし。

高齢者の多くはバリバリ稼ぐことはできず預金や年金で暮らしていて、若者よりひんぱんに病院に行く、という共通点はあるが、20~30代だと、既婚か未婚か、子供がいるかいないか、正規雇用か非正規雇用か、などさまざまな環境があり、そこまで世代単位の共通の政治的利害はないのではないか。

最近特に若者の投票率を上げようという発言や活動をする人をよく見かけるし、なんかいいことしてそうな感じはあるが、何が動機でやっているのか。そういう人は、今は棄権している人が投票に行くようになったら、自分と同じ政党や候補者に投票するに違いないと思っていないか。そううまくはいかないのでは。そもそも、棄権者が多い方が投票した人の一票の価値は上がるのだし。

漠然とそういうことを考えていたので、この朝日記者の「いわゆる良識的マスコミっぽい意見」に対して政治学者がバンバン切り返していくのを面白く読んだ。新聞は、社会面と政治面がつながっていないという指摘もなるほどと思った。

日本ではなぜ『勘違いオヤジ層の意見』がはびこるのか

カテゴリー : 社会・意見 — 2013/05/20

「若者には金が無い」ということが、世間一般的には決して「常識」ではないという現実 – yuhka-unoの日記

書かれていることに全面的に賛成ではないが興味深く読んだ。

専業主婦=奴隷と読める部分に引っかかっている人もいるようだが、私はこれを「日本ではなぜ『勘違いオヤジ層の意見』がはびこるのか」という問題提起として読んだ。

その原因を2つに分けてみる。
1)なぜ「オヤジ層」の意見は正しくないのか
2)なぜ正しくない意見であるにもかかわらず、世の中で支持されている(ように見える)のか

1)については、今の日本にはざっくり分けると正社員ホワイトカラー層と非正規雇用層があるのだが、意見を発表できるようなポジションにいる人は前者ばかりでいまだに「一億総中流時代」的な認識を持っていて、後者が見えていないのだろうと思った。特に若者に非正規雇用がすごく増えている(さらに、「ブラック企業を転々とする正社員」みたいな、かぎりなく後者寄りの前者みたいな人もいる)のに、それを代弁する人がいないと。

日本にも階層というものがあって、比較的、正社員層どうし、非正規雇用層どうしで交際・結婚することが多いと思う。交際というのは男女交際だけではなく友人としての交際も含む。非正規雇用層どうしだと経済事情で結婚に至らないことも多いだろう。ここでいわれるオヤジ層は子弟も高学歴→正社員だったり、会社に入ってくる女性総合職などしか見ていないのに若者全般を語ってしまうのではないか。

「自分を高嶺の花だと勘違いした女が、えり好みしているから、婚期を逃すんだろ」と考えている「オヤジ」も、決して少なくはないと思う。」というのは、いかにも正社員オヤジ層が自社に入ってくる女性総合職を眺めていて持ちそうな感想だと思った。

女性総合職の側から見たら、仕事は続けたいだろうし、別に結婚しなくても食べていけるし、わざわざ結婚したところで自分だけが家事育児を負担することになりそうなのがイヤで結婚を先送りにしているのかもしれない。誰でも与えられた環境でいちばん良い選択を目指すのは当たり前で、それを「えり好み」などというのは大きなお世話だと私も思うのだが、「オヤジ層」からはそう見えそうだということは容易に想像がつく。

このあたりの「自社に正社員で入ってくるような女性しかみていない」ところが「女性の社会進出を現状よりも過大評価している」ことにつながるのだろう。

一方で、女性の多くを占める非正規労働者は、とりあえず働き続けていればお金には困らないであろう女性総合職とは全く別の見通しで、結婚とお金の問題を考えているだろうから、「オヤジ層」が正社員女性だけを見てできた「近頃の若い女性ってこういうもの」という意見に対して的外れだと感じるのは当然だ。

2)について。

少子化問題に限らず、視野が狭いのになぜか社会問題について変な認識を語ってドヤ顔みたいなオヤジ権力者ってどこにでもいると思う。日本国内ではそれなりに尊重されているが外国人と接したとたんにボロが出たりとか。何か最近そういう政治家もいたような……。

最近の自己啓発本ブームをみても、Facebookなどで権力者にすり寄る人をみても、人はより社会的地位の高い人の話を聞きたがり、そしてそういう人の意見は内容の善し悪しを問わず広がりやすいというのはもう生存本能みたいなものでしょうがないのかなと思うようになった。

最近のネットとかソーシャルメディアも、こういう「話の内容よりも誰が語ったかが大事」的な傾向を後押ししていると思うし、個人発行の有料メルマガなどもその流れに乗ったものだと思う。

別のブログから引用する。
ブログとメルマガだけの関係 – あざなえるなわのごとし

Kindleで素人が本出したりとか。
プロブロガーも色々出してるねぇ…誰とは言わんけど(数人浮かぶ)。
コンテンツの品位と品質、内容と対価のバランス構造がおかしくなってる気もする。
逆に手間のかかるアプリが無料で、そのくせ少しのミスで酷評されたりとかね。
あれってどういう価値観なんだろうか。
ニコニコの生主にはさくっと払って、グダグダのコンテンツを見てそれなりに満足して、
有料の素人メルマガにさくっと払って、毒にも薬にもならん記事を読み、
無料のアプリをDLしてちょっとミスがあるとレビュー欄に「最悪」とか書きこみ、
無料で見てるブログに気に入らないことが書いてあったら
「は?イミフwwwwwww」
とかコメント付けてみる、みたいな。
即物的で脊髄反射しか感じられないなぁ…。
価値って言うか、その価値を測る尺度って言うか。
そういうズレを色々と感じるなぁ…。
勿論、もしそういう人物が実在するなら、だけれど。

他人の意見やアプリなど「物そのもの」を直接評価するのは難しいが、社会的地位があるとか個人的に親しみがあるとかで「個人」を評価する方が簡単なので、特に頭を使いたくない人はそっちに流れる風潮があると思う。先に挙げた失言政治家が2人ともtwitterやfacebookのヘビーユーザーであることも関係があるかもしれない。

というわけで、

1)なぜ「オヤジ層」の意見は正しくないのか
→最近の日本は階層分化が進んでいるが、上層に属している彼らはそのことに気づいていないから
2)なぜ正しくない意見であるにもかかわらず、世の中で支持されている(ように見える)のか
→発言者に社会的地位があれば、それだけでその人の意見を持ち上げる人が多いから

ではないかと思った。

できることは、そういう「オヤジ層」的な、実際には的外れな意見が政策などに反映されないように、専門家が止めることだけではないかと。

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